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今月のエッセイ

2012.8.24 『ふるさと・樺太』安在 惠


                                         
 所用で札幌に出かけ、一点観光で、小樽の小林多喜二文学碑まで足を伸ばすことにした。
小樽駅から地獄坂などと名乗る坂をふくむ上り坂を40分ほど歩き、目的は達した。
 その文学碑の近くに、もう一つの碑が立っている。それには樺太記念碑と刻されてある。
 「樺太を偲ぶ」と題する碑文のなかに、「彼の地に生を享けかけがえのなし郷土とする数多
くの同胞」ともあり自分がその一人であることは間違いない。このところ樺太について多
少関心が向かっていたので、偶然なめぐりあいに少し驚いた。

 出身地を訊かれると、北海道と答えてきた。しかし出身地とは生まれた土地のことであ
ろうから、それならば樺太と答えるのが正しい。だが樺太と答えると、対話が樺太とのか
かわりを説明する方向に向かうことが多く、それをなんとなく避けていたのかもしれない。
 「故郷(ふるさと)」は出身地と同義語だろうか。ねんのため「ふるさと」を手元の辞書
にあたってみる。「その人に、古くからゆかりの深い所。(イ)生まれ(育っ)た土地。(ロ)
以前に住み、またはなじんでいた所。」(岩波国語辞典第4版)とある。そうか、すると樺
太も北海道も、北海道の函館や札幌も、すべてが故郷(ふるさと)なのか。
 現在は埼玉県に住み、今年で40年になる。生まれた土地も、青少年時代を過した北海道
も、空間的はもちろん時間的にも、ずいぶんと遠ざかってしまった。いまではここ埼玉の
地もふるさとと言って差し支えあるまい。
 あと数年で「後期高齢者」(なんという官僚用語だ!)の仲間入りをする。自分史という
ものをまとめるとするならば、そういう時期にも達しているのではと思いはじめている。
自分史を語るとすれば、ふるさとを抜きにして語ることはできない。
 そこで、普段あまり深く考えないできた、生まれた土地である樺太について自分なりの
スケッチをしておきたい。

 樺太は、北海道の北に伸びている細長いロシアの島である。手元の地図帳を見ると、サ
ハリン(樺太)とある。北緯50度のところに南北に分割する線が記されている。南側が日
本の領土であった歴史を現しているのだろう。
 インターネットの地図も活用し、拡大してみる。
 旧日本領のかなり北側の西海岸にウグレゴルスク(恵須取:「えすとる」と読む)という
地名がある。1940年7月、その地で生まれた。自分の名がふくまれている地名なので親は
意識したかもしれないが、きちんと確かめてはいない。
 恵須取の北東の東側海岸線にポロナイスク(敷香:「しすか」と読む)という地名がある。
数少ない幼年期の記憶の一つに、日本軍の駐屯地であったと思われる敷香まで、母と子供
たち(兄二人、弟一人)計5人で、父親の慰問に出かけた場面がある。度重なる防空壕に
避難した記憶なども、いずれも音声がともなっていず、あいまいな映像の記憶である。音
声の記憶はない。
 音声の記憶はないと書いたが、樺太のことを思い起こすと、なぜか「とんび」という文
部省唱歌が浮かんでくる。便利なインターネットで検索してみると、「とんび」は、当時、
小学4年で習うことになっていたようだ。おそらく6歳上の長兄が歌っていたのが幼い自
分の頭に刷り込まれたものであろう。
 もう一つ、かなり鮮明な映像の記憶として、大勢の外国人兵士を載せた何両もの戦車が、
列を連ね、土ぼこりをまきあげ行進している場面がある。その場面を、逃げるでもなく、
じっと見つめつづけていた自分を記憶しているのは、そのときは既に、戦争が終わってい
たのであろう。
 終戦の8月15日の前、8月9日に、日ソ中立条約に反し、ソ連軍が北緯50度線を越え
侵攻してきた史実があるようだが、それらのことをふくめ「ふるさと・樺太」のことにつ
いて、もう少し調べてみたいと思う。
樺太からは6歳のとき離れ、いままで、ふたたびは訪れていない。

画像   

  小林多喜二文学碑

画像   

  樺太記念碑