理科美トップ > 今月のエッセイ

今月のエッセイ

『共食い』松本晶




こんなことを言うと、たいていの人はびっくりして、しばし沈黙が流れる。

「共食いってどんなものかねぇ、ちょっと興味あるんだけど。」



あらかじめ誤解の無いように言っておきたいが・・・

私は決して、人間の猟奇的な行動を助長するつもりもなければ、今現在人間である以上共食いをしたいともされたいとも思っていない。

ただ、多くの生き物で共食いは当たり前のように行われているから、そんな彼らの世界に入って(その生き物になって)それぞれの感覚を得てみたいとは思っている。

共食いと言っても、飢餓状態・高密度環境・高ストレス下におけるもの、繁殖効率アップ・急な環境変化への対応・敵から身を守るためなど様々な意味合いを持っており、ただやみくもに仲間を襲ったりはしない。生きていくために必要な行動なのである。



長年ハツカネズミを飼育しているが、彼らもそんな生き物の一つだ。

仲間同士くっつき合って眠るし、仲むつまじく毛繕いし合うし、群れのメンバーの結びつきはお互いの臭いで確認し合いながら時間とともに強まるのは人と同じである。

しかし死が近づいた仲間が出ると、だんだんその周りで数匹がそわそわしだし、ほとんど動かなくなると、我先にとその死体の口元から食らいつく。

動物性タンパク質の餌は十分だし、飼育環境も安定し繁殖も順調なのに、先を争って死んだ仲間を貪るネズミたちは、それがまるで義務であるかのように粛々と続ける。

私はそんな彼らの行動を見るたびに、(本当はこんな言い方はしたくないが)まるで仲間を食うことで弔っているように感じる。

生物学的に言えば、死体の臭いに寄ってくる天敵を防ぐために死んだ仲間をきれいに片づけることに利点があるのだろうが、私にはそういった本能的な行動としてとらえるにはあまりに神秘的な行為に見えた。



ずっと昔(そんな昔ではないかもしれない)人間にも仲間を食う「文化」があった。

社会に現代倫理というものが生まれ、食人文化は過去の忌まわしい事実として記録されるようになって久しいが、それらの多くは、相手の魂を食らうことで「生命エネルギー=魔除け」を得ることと「弔い」の意味があったらしい。

現在にいたる人の常識という概念は、時に変化を生もうとするうえで大きな足かせになる。

新たな角度で世界を見ることは自由だし、面白い。

少々刺激的な例を挙げてしまったかもしれないが、せっかく頭でっかちの人間として生まれたのだから、時には話し相手がのけぞるような突拍子もない会話をしてみたいというのが本音だ。



コロギスの共食い





共食いモルフ