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今月のエッセイ

2008.11.24 「大賀ハス」四本隆


作品のタイトル


理科美術協会発足時の会員で植物画家の大田洋愛さんが1980年の「趣味の山野草」という雑誌に「追憶・植物画への道」という随想を掲載されました。
以下、その興味深いエピソードを一部抜粋させていただきました。

植物画を描きつ続けて五十年。半世紀が過ぎた。
愛知県に生まれ、幼い頃から画家を志望して絵ばかり描いていた私が、旧満州奉天(現中国東北地区瀋陽)で、教育専門学校植物学教室の大賀博士にはじめてお目にかかった。
先生は古代ハスの実の発芽と開花に成功、のちに「ハス博士」とまで言われる程に人に知られるようになった植物学者である。
ここで植物画というものを教えられ、先生から植物画を描くことをすすめられた。
昭和四年(1929)一月のことであった。
「僕は絵の描き方がわからない。さいわい僕の知人で大変植物画のうまい人がいる。その人に描き方を聞いてあげる。描く材料なども聞いてあげよう」と間接的ご紹介を頂いた人、それが牧野富太郎博士であった。
それから一ヶ月程過ぎた三月のはじめ頃であったろうか、東京の牧野博士から小包便が届いた。
大賀先生が小包の包装を解く間、私は逸る心をおさえながら待った。
包みからはギロットの丸ペンと三本のペン軸、細く毛足の長い牧野先生特製の面相筆二本、古梅園の三つ星の墨一本、オイルストーン一個と小さな硝子の油壷が出て来た。
平たい大きな包みには、英国製の八つ切りのケント紙が数十枚入っていた。
「僕はここにあるもので植物の絵を描いている。自由に使って、よい植物画を描いてくれたまえ、鉛筆は2Hから3H位の固いものがいいようだ。」と細々と親切に添え書きまで入っていた。
これらの描画材料を見せられた瞬間から、私は植物画への道を進むことを運命ずけられたように思える。
「人間の短い生涯にどれだけのことができるであろうか。欲張るものではない。たった一つでよい、これだけは誰にも負けないというものをやれ」と、先生はいつも口癖のように言って聞かせてくれた。
「僕はハスの実に生涯を賭ける。どうだ君は植物画に賭けてみないか」ともいわれた。・・・・

大田洋愛さんはその後植物画一筋にご活躍されました。
4、50年前までは私たちも古梅園の墨をすり丸ペンを使って描いていました。
今ではロットリングやもっと描きやすいペンがあり便利になりました。
「大賀ハス」については、川端康成の小説「山の音」の一節に主人公が読んだ新聞記事として取り上げられており 次のように書かれています。

「花開く二千年前の蓮」といふ珍しい記事があった。
昨年の春、千葉市検見川の弥生式古代遺跡の丸木船のなかから、三粒の蓮の実が発見された。
おほよそ二千年前の実と推定される。なにがしといふ蓮博士が、これを発芽させて、今年の四月、その苗を、千葉農事試験場と千葉公園の池と千葉市畑町の造り酒屋の家と、三ヶ所に植えた。
造り酒屋は遺跡の発掘に協力した人らしい。釜に水を張って植え、庭先においた。
その造り酒屋さんの蓮が、第一番に花を開いた。蓮の博士はしらせで駆けつけてきて、「咲いた、咲いた。」と美しい花をなでた。
花は「徳利型」から「湯呑型」、「お鉢型」となり、「お盆型」に開き切って散ると、新聞は書いていた。
眼鏡をかけた、白毛まじりらしい博士が、開きかけた蓮の花茎に手を持ちそへている写真も、記事のしたに出ていた。
読み直すと、博士の年は六十九だった。・・・

古代ハスは「大賀ハス」とも呼ばれて、昭和二十六年故大賀一郎博士が千葉県検見川の泥炭層から発掘した。
その古代ハスを東京都町田市相原の円林寺住職高築さんが府中市役所に勤めていたころ、大賀博士の知遇を得、「後継者としてハスを育ててほしい」と依頼され、”蓮の寺”として全国に分根して親しく知れ渡っているそうです。