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今月のエッセイ

2008.11.21「忘れ得ぬ瞳へのつぶやき100撰 -想い出深き小品たち(自選・第1回)陽子-」狼林


作品のタイトル


陽子とはこの魚の名前であり、わたしの子供でもある。
見ておわかりのようにこの娘はさかななので、わたしとの間に血脈こそのつながりは無い。
しかし、陽子の存在を確認した夜に、わたしは祝い酒をあびるように呑み、ヒックヒックとうれし泣きした。至福の一夜にいつまでも睡魔が訪れぬことも知った。
陽子は岩魚(いわな)である。
イワナとは、北半球に自然分布するサケ科魚類の一属であり、海に下る降海型と内陸部の淡水域で生涯をおくる陸封型(河川残留型)とに分かれる。
日本本土・内地でイワナといえば、ふつう陸封型をさすことが多い。
そして、このイワナは日本の魚の中でもっとも空高く、標高2000メートル以上の雲の上にまで生息している。
だからイワナに逢うためには、まず山を何時間も登ることから始めなければならない。
ヤマセミにあいヤマドリにあう。シカやカモシカにもであう。もちろんクマに声をかけられることもまれではない。
こうしてイワナとは、本来、山深い幽谷の奥地あたりに秘めやかに暮らしている清い魚なのだ。
だから、幻の魚などとうたわれてきた。

日本のイワナは、オショロコマ(カラフトイワナ)とアメマス(エゾイワナ)の2種がおり、前者には、ほかに天然記念物に指定されているミヤベイワナという別亜種が存在している。
しかし、後者には亜種ほどには分別できぬ、微細な相違点しか有しない多くの型がみられる。
それらの生物学的相違点は審らかにされておらず、現時暫定的であり承認待ち状態にとどまっている。
つまり、実にあいまいな違いであり、3系統とも5型や7型とも報告されることさえある。
だから、イワナの種類は学者の数だけ存在する、といわれてきたらしい。
これら、多彩なる体色変異斑紋が日本各地で確認されるのは、氷河期より山々に幽閉され続け、それぞれを取り囲みつつ育まれた、生息環境への適応の姿なのだろう。
いわば個性の結晶であり、進化途中の姿なのかもしれない。
ところが、イワナの研究が進む前に、山々は切り開かれ車道が通ってしまった。
そして、内水面法の保護のもと、各地の漁協は学術調査が本格化する以前から、こぞって養殖可能となったある1種類の地方イワナを、日本中の自然河川に無計画放流し続けてしまった。
亜種以前の違いくらいでは、在来の土地イワナと容易に交雑してしまう。
今、各地の純粋な在来型土地イワナたちは、絶滅の危機にさらされている。
長いあいだ天然イワナとの関わりをライフワークにしてきた私は、交雑化の蔓延する不幸な未来を危惧し、数名の同志とともに絶滅沢への土地イワナ移殖放流を繰り返してきた。

2002年盛夏。
A県B川水系C支流D沢で、8尾の土地イワナを捕獲、生かしビクに湧き水を補給しながら道無き山中を3時間かけ運搬、同支流のE沢に種魚として移殖放流した。
この沢は、下流部で一般林道の橋がかかっていて、釣り人に入渓されやすく根こそぎ釣りきられ、とうとう絶滅してしまった小沢である。
うまく8尾が定着してくれると、秋には産卵の舞がみられ、翌年にその子供たちが10センチに成長、翌々年には20センチから25センチの成魚にまで育ち、オスはその年から、メスは3年目から産卵行為に参加するはずなのだ。
こうして、放流より2年半の時を経た2005年春、追跡調査を実施した。
源流の放流地点より下流300メートル間、いたるところで魚影を確認することができ、記録サンプル個体として21センチ♂1尾、23センチ♀1尾を写真におさめた。
♂はすでに前年度の産卵行為に参加したはずだし、♀のほうも順調に成熟すれば秋には産卵を始めるはずだ。
見ての通り陽子は容姿端麗、こよなくうつくしい乙女に成長していた。
いや、もとい。すくなくとも私には、妖艶なる女性に見えてしまうのであった。
未来永劫、谷深く差し込む陽の光をあび、川床に揺れ動く木々の葉影とたわむれあそぶイワナたちの姿を願い、男の子を光多朗、女の子に陽子と名付けたのである。

 F0号キャンバスにアクリル画。
 2006年1月、聖蹟桜ヶ丘京王百貨店ギャラリー企画個展出品作。