今月のエッセイ
2008.11.1 「満点の星空」 四本彬

夜景が美しいということは、裏を返せば光害が甚だしいということに他ならないから、星空の鑑賞という点からは、都会がまったく不適当な場所であることは言うまでもない。
つまり、夜景の美しさと、夜空の美しさは反比例しているのである。
今さら都会の夜空を返せといっても無理な注文であるから、満天の星空を見たかったら、人里はなれた山奥にでも行かなければならないのであろう。
というわけであるから、今の子供たちの大多数は、おそらく満天の星空など一度も見たことがないに違いない。
子供の理科ばなれが心配されているけれども、案外素因の一つはこのあたりにあるのかも知れない。
プラネタリウムで十分に用が足りるという考え方もできるであろうが、科学への興味を呼び起こす力は、やはり本物の自然に触れたときの感動には及ばないのではないだろうか。
またまた昔話で恐縮であるが、戦後間もない60年ほど前は、街灯さえ満足にない薄暗がりの街だったのだから、今から思うと、夜空の鑑賞には、この上ない理想的な条件が整えられていたわけである。
とはいえ、食料難、物不足の苦しい生活の中で、満天の星空が見たいなどという、のんきな気分にひたっている余裕などない時代であったから、せっかくの好条件も逆効果でしかなかった。
当時、高校一年の夏に、霧島山麓の牧園というところでキャンプに参加する機会に恵まれた。
そのときに、生涯二度とないようなすばらしい満天の星空に遭遇したのであった。
日暮れとともに、快晴の空に星がまたたき始め、暗くなるにつれて星の数はぐんぐん増えて、やがて空一面に銀の砂を敷き詰めたような満天の星空になった。
こうなると、もはやどれが一等星か二等星かなどの判別はつけられなくなり、少しばかり知っていた星座の知識などまったく役にたたず、ただ呆然と見とれるだけであった。
夜半にふと目がさめたので、星空の様子を見ようとテントから出て驚いた。
目はすっかり暗闇に慣れて感度最高になっていたので、星々の光は前よりはるかに輝きを増して、信じがたいような銀世界が目に飛び込んできた。
通常、目で見える星は6等星までとされており、その場合に一度に見える星の数は高々3000個程度であるから、プラネタリウムで見るように、星はまばらに散らばっており、けっして銀の砂を敷き詰めたようには見えないはずである。
しかし、人間の目の網膜は、シャープな映像を見る中心部分の感度が低いのに対して、周囲の部分は、映像はぼやけているものの、明るさや動くものに対する感度は高くなっていることが知られている。
したがって、視野全体では、おそらく10等星ぐらいまでの星の存在をおぼろげながら感知しているのではないかと考えられる。
そうでなければ、私の見た満天の星空と、プラネタリウムの星空の違いを説明できないからである。
先日、投影星数400万個を誇る、大平貴之氏制作によるメガスター・プラネタリウムを、川崎市青少年科学館で見てきた。
12.5等級までの星が投影されているというだけあって、通常の満天の星空というレベルをはるかに超えているのである。
ところが、私が見た満天の星空の記憶と比べると今一つリッチな感じがしないのである。
おそらく、明暗順応の時間が足りなかったためであろうと考えているが、あるいは、自然の再現において、人間の計り知れない感覚に、まだ追いついていない未知の要因が隠されているということもなきにしもあらずである。
それは、実物を見たときの体験からだけ与えられる過大な感動のようなことなのかも知れないが。