今月のエッセイ
2008.6.10 「裏庭天文家」 四本彬

アマチュア天文家のことを、アメリカではバックヤードアストロノーマーというそうである。
つまり「裏庭天文家」である。
ちょっとアマチュアをばかにしているように聞こえるが、そうではないらしい。
アメリカでは権威主義を嫌うためか、権威あるものにたいして、あえて軽い呼び名をつける一種の茶目っけのようなものがあるように思われる。
たとえば、日本では、内閣とか大臣とか政党などといった重々しい特別の名称がつけられている政府の機関や役職なども、キャビネット(戸棚)とかディレクター(監督)とかパーティー(集まり)というありふれた名称がつけられている。
学術レポートも日本では論文といういかめしい名称がつけられているが、英語ではペーパー(紙)、あるいはマニュスクリプト(原稿)といわれるだけである。
したがってバックヤードアストロノーマーも、気楽な立場で天文学にかげながら貢献しているアマチュア天文家に対する羨望と敬意をこめた愛称であることは間違いない。
その証拠に、一般向けの天文雑誌では、日本のアマチュア向け天文雑誌「天文ガイド」などと同様に、アマチュア天文家が大活躍しているのである。
彗星や小惑星の発見などが、たいていアマチュアの手によってなされていることはよく知られているとおりである。
私が天文に興味をもつようになったのは、高校入学以来であるから、もうかれこれ50年以上も昔のことになる。
もともとお仕着せの学校の勉強にはあまり興味がわかなかったので、もっぱら趣味(ホビー)の世界にのめりこんで、中学のときは模型の電車づくりと昆虫採集に熱中した。
高校に入って、課外活動のためにクラブを選ぶことになり、私は、もともと好きだった絵を描くために美術部と、やはり前々から興味をもっていた化学の実験を試してみたいという好奇心から理化学研究会に入ることにした。
理化学研究会には、現在放送大学の教授として活躍されている浜田隆士さんや、当時中央気象台の台長(今で言うと気象庁長官)の和達清夫という著名な科学者の子息などの上級生がいて、活発な活動が行われているように見えた。
新入りの部員は私をふくめてわずか3人であったが、たまたま3人とも天文に興味をもっていたので、欠員になっていた天文班に割り当てられた。
学校は戦災をまぬがれたので、設備は比較的充実しており、戦後間もない物不足の時代にもかかわらず、クラブ活動のためには分不相応ともいえる立派な天体望遠鏡が配備されていた。
立派とはいっても鏡の直径が15センチのニュートン反射望遠鏡で、今ではことさら驚くようなものではないけれども、当時としては破格の環境だったわけである。
話によると、この望遠鏡の鏡は当時著名な鏡磨きの名人によるもので性能の優れたものだということであった。
しかし、それまで天文班が欠員であったことから察すると、せっかくの名機も宝の持ち腐れだったということになる。
というわけで、この名機はわれわれ3人だけの占有物となり、都合のつくときには随時観測会を開いて、バズーカとあだ名をつけたこの鏡筒をかついで屋上に上がり、太陽や月などを眺めた。
私は自分でも望遠鏡が欲しくてたまらなかったが、おいそれと買ってもらえるような境遇ではなく、小遣いで買えるとすれば10センチ反射鏡の素材ガラスぐらいが関の山であった。
そこでとにかく鏡だけでも自分で磨いてみようと考えて、「天文ガイド」で販売されていた鏡磨きキットを購入した。
素材ガラスは厚さ2センチほどの2枚の円形ガラスで、この2枚のガラスの間に砂をまいて重ねてすり合わせて磨くのである。
精密を要する反射鏡がこんな簡単な操作で作れるとは驚きであるが、理論的には正しいのであって、実際の製品も手動の工程を機械的に自動化しているだけで原理はそれほど違わないのである。
とはいっても手動で行う場合も、全工程にわたって力のかかりぐあいが完全に均等でなければ十分な精度は得られないので熟練の技を要するわけである。
磨くための砂を用意するのがまた大変な作業なのである。
粗擦りにはじまって次第に細かい砂を使って表面をなめらかにしていくのであるが、この何段階かの細かさの砂を自分で仕分けして用意しなければならないのである。
キットについている砂をバケツいっぱいの水に入れてかきまぜて、数秒間経った後上澄みをホースで別の容器に吸い出して、その上澄み水に混ざっている砂を濾紙で濾し取るのである。
この操作を何回かくりかえすと順に細かい砂が採取できるというわけである。
これは思ったよりはるかに手間のかかる作業であった。
その後、これらの細かい砂は、あらかじめ分別されて販売されるようになったので、後進の鏡磨き人たちは大幅に労力が軽減されたことは確かである。
鏡磨きの作業はまず作業台を用意することから始まる。
台のまわりを人が回りながら2枚のガラスを前後にすり合わせるので、丸いテーブルがあればよいわけである。しかし手軽な方法として空の酒樽を用いる方法が推奨されていたので、酒屋で空き樽をもらってきた。
逆さにした樽の底の中心に1枚のガラスを固定して、表面に砂と水をまいて、もう1枚のガラスを重ね合わせて前後にすり合わせるのである。
はじめに、2枚のガラスの中心をあわせてから、手前に3分の1だけずらし、また元の位置にもどすという操作を、樽のまわりをまわりながらくりかえすのである。
この間、上からの力はいっさい加えてはいけないのである。
つまりガラスの重さだけが加わるようにするわけである。
最初の粗擦りで、希望する焦点距離の曲面まですりあげる必要があるので、途中で何回も、決められた方法でおおよその焦点距離を調べるのである。
所定の曲面が得られたら、すりガラスのようになっている表面をさらに細かい砂を使って磨いていき、なめらかなガラス表面にまで仕上げるのである。
しかし、砂だけでは完全にピカピカの表面にならないので、最後は、台のガラスの表面にピッチというアスファルトのようなものを流し、型取りしてからベンガラという赤い粉末と水をまいて磨くのである。
このような面倒な段取りのすべての段階を完全にクリアしないとすべての労苦は水の泡になってしまうわけである。
私はまず粗擦りの段階で力がはいってしまったらしく、予想されていた磨き時間より相当早く目的の曲面に達してしまった。
そのために中心部が後の仕上げの段階で磨かれずにすりガラスの状態のまま残ってしまった。
ひととおり工程を終えてテストしてみると、案の定まったく使い物にならないものであることが明白になった。
結局この試みは、反射鏡磨きの工程を実習しただけという結末になった。
反射鏡の曲面は精密な精度を要するのだから最初の挑戦で成功するのはおそらく無理なことだったのかも知れないが、再度挑戦する根気も時間的ゆとりも私には残されてなかった。
大学入学の頃には、趣味がラジオづくりのほうに移っていたので、天文とは疎遠になった。大学卒業後は父の稼業をついで科学イラストレーターになった。
ラジオづくりの趣味はオーディオへと移行して、近年のデジタル技術の発展とあいまって、今ではBS放送やCDでクラシック音楽を楽しむのに役立っている。
一方天文への興味は、ときどき天文ガイドを買って、もろもろの新知識を補充するという程度でつづいていた。
1980年の2月にインドで見られるという皆既日食の観望ツアーの募集広告が天文ガイドに出た。
当時僧侶の身で鏡磨きの第一人者として知られていた木辺成麿氏をリーダーに迎えて立案されたアマチュア向けの企画だったので、観望には理想的な条件が整えられていた。
晴天率100%というふれこみも気に入って参加することにした。
ボンベイ(ムンバイ)を中継してインド南部のデカン高原の真っ只中にぽつんと置かれたベルガウム空港まで飛び、そこからバスで未舗装の道をさらに南に100kmほど行ったところにあるフブリ市の小さなホテルが観測拠点であった。
この地域はめったに観光客が来るようなところではないので、沿道の途中の部落ではどこでも我々のバスを見るため大勢の人垣ができて好奇の視線をこちらに向けていた。
聞くところでは、日本から観測隊がやって来るという報道が事前に流されていたということで、異常な歓迎ぶり?に合点がいった。
まるでスターにでもなったような得がたい体験だった。
フブリ市は、幅が100kmほどもある皆既日食帯の中心から10kmほど北に離れているだけなので、観測には十分に適しており木辺隊長をふくむ幾人かはこのホテルの屋上を観測場所に決めていた。
しかしここから南に10kmの、皆既帯のど真ん中に位置するドンツィ村までバスを出してもらえることになったので、理想的な観測条件をもとめて大多数はこちらに参加した。
村とはいえ人家もまばらな荒野であった。
潅木がまばらに生えた広い空き地にバスをとめて、それぞれ散らばって観測器具の設置をする。
あたりには人家も見えず住人は誰一人現れなかった。
観測法は、小型望遠鏡にカメラをつける方法と望遠レンズをつけたカメラを用いる方法の二派に分かれていたが、私は500ミリ望遠レンズを使う後者の方法であった。
日食の皆既時間は太陽と月との距離の関係で、金環食のように皆既時間ゼロの場合から5分以上もつづく場合までいろいろであるが、今回は2分50秒もつづくので観測条件としてはよい部類だった。
コロナは円盤に近い部分と先端の部分との明るさが極端に違うので、露出を何段階にも分けて撮らないと、全体のシャープな映像を捉えることはできないのである。
したがって、皆既時間の間にどれだけたくさん露出を変えて写真を撮れるかが勝負の分かれ目なのである。
私は双眼鏡で直接観察することに重点をおいていたので、写真は10枚ぐらい撮れればよいと考えていた。
いよいよ皆既が始まって一番驚いたのは、これまで見慣れていた皆既日食の写真とはまったく違って、コロナの筋がじつにはっきりと見えることだった。
それまで写真で見ていたコロナは黒い円盤のまわりに広がっている白い雲といった感じの印象がつよかったのであるが、実物を見ると、黒い円盤のまわりからは、はっきりと見える線条となって、いく筋ものコロナが放射状に広がっており、円盤の周囲では円弧状に曲がったコロナの筋がいくつも重なったところなどもあって非常に複雑な形状を示しているのである。
目ではこんなにはっきりと見える形が、写真ではなぜ写らないのか不思議でならなかった。
やはり目の機能は、写真より桁違いに優れているのだということを思い知った。
つまり、光量差に対する寛容度がまったく違うのである。
目が暗闇に慣れる明暗順応という現象が網膜の部分部分でも働いて、コロナの部分部分の明るさに応じて適当な感度で網膜が順応しているのであろう。
コロナの色は全体的には乳白色であるが、根元のあたりを見るとガスバーナーの炎のようにやや青白い感じもする。
ところどころに点々と薄紅色のプロミネンスが現れており、周囲のコロナに反映して、その辺りはほんのり真珠色に染まってじつに美しい。
写真は十分な枚数を撮りこなし、双眼鏡による観察も十分にたん能して、無事に観測を完遂できたことを内心で喜びながらほっとして肉眼で太陽の方向に目を向けると、皆既は依然としてつづいており怠惰な白い光芒をまわりに放っていた。
ふと後ろをふりむくと、それまでだれもいないと思っていた場所に、われわれを遠巻きにして大勢の人垣ができていたので一瞬ぎょっとさせられた。
インドでは日食は災いをもたらすものという言い伝えがあるとのことで、このドンツィ村でも村長の指令で皆既中は外出禁止になっていたのである。
そして皆既終了とともにわれわれを観察しようと集まってきたのであった。
せっかくの皆既日食が地元で見られるという千載一遇のチャンスなになんと言う気の毒な話であることかと、いささかやりきれない思いにひたりながら、次第にわれわれの周囲に集まってきた人たちに、いくらかでも科学の断片に触れさせてあげようという思いで、皆既の終わった部分食の太陽を望遠カメラで見せてあげたのだった。
帰国後、かすかな期待に望みを託して、出来上がってきた写真を見ると、予想されていたことながら、実物とのあまりの違いに愕然とした。
これほどまでにコロナが写真に写りにくいものとは、とあらためて実感させられた。これはもうエアブラシを使って再現するほかはないと考えた。
露出を変えて撮った8枚のスライドからプリントをつくり、かろうじてコロナの形がわかる部分を切り出して重ね合わせて合成写真を作り参考資料にした。
内外の天文雑誌に続々と掲載された、フィルターや望遠鏡を使用した写真なども参考にした。
フィルターを使用する方法は、ニューカークフィルターという当時急浮上してきた画期的なフィルターによるもので、まだ世界で数人しか実行していないという新技術だった。
ようするに、コロナの明るさの諧調に反比例するようにつくられたフィルターなのである。
しかしこれは「言うは易く行うは難し」のむずかしい技術なのである。そのようなフィルターはもちろん市販されてはいないから、手作りで各人それぞれ工夫をこらしてつくりあげるのである。
使い方がまたきわめて厄介なのである。ふつうのフィルターはレンズの前につけて簡便に使えるのにたいして、このフィルターは感光フィルムの前に重ねて使わなければならないのである。
しかも撮影のときには、太陽の像の大きさと位置をフィルターのそれと完全に一致させなければならないのである。
雑誌に掲載された新フィルターによる写真は従来のものと比べて格段にすぐれてはいたが、やはり肉眼で見た印象には遠く及ばない。
しかしこの技術が進歩すれば、遠からず完全な映像が得られる日が来るに違いない。
後日、ツアー同行者の会合に、エアブラシで描いた日食の絵のプリントを持参したところ、驚くほどの大反響をよび、みんなが写真にいだいていた不満がいかに大きいか感じ取ることができた。
私自身は絵の仕上がりにまだ不満が残っていたが、ためしに天文ガイドに送ってみたところ、すぐに採用され80年の7月号の片隅に掲載された。
その後、改良の筆を加えて、アメリカの[ASTRONOMY]という雑誌に送ったところ、すぐに採用の決定が知らされて、81年3月号の[the backyard astronomer]という欄に、見開きの2ページにわたって大きく掲載されたのだった。